Exhibitions

 

GALLERY ETHERでは、2022年9月10日(土)から9月30日(金)の期間にて、画家の奥天昌樹と写真家のKentaro Takahashiによる二人展『Resusci-Anne』を開催いたします。 

本展タイトル『Resusci-Anne』は、1880年代後半にパリのセーヌ川で発見された身元不明の若い女性「セーヌ川の少女」のデスマスクが原型となり、心肺蘇生訓練用マネキンとして現在でも使用されている「Resusci-Anne」を引用しています。

実在したある人物からデスマスク、そして医療用マネキンへと変遷し、現在でも「生産」され続けるこの人形は、奥天と高橋にとって「シミュラクルの象徴」として特別な存在となっています。

ペインティングと写真、異なる表現方法において二人のアーティストが持っている、モチーフを捉え支持体に反映させるという「共有した感覚」についてフォーカスを当てる本展では、初となる共作のインスタレーション作品も展示します。制作の過程で互いが見ているそれぞれの「距離」について、画家と写真家の視点を交差させながら、それぞれの取り組みを紹介いたします

本展覧会の開催に際し、初日の9月10日(土) 17:00〜20:00にGALLERY ETHERにて奥天昌樹とKentaro Takahashiを招いたオープニングレセプションの開催を予定しております。


展示ステートメント

本展は画家の奥天昌樹と写真家のKentaro Takahashiによる平面作品に付附する共通点や差異を再確認することによって両者の視点からさまざまな距離感について考察する企画展です。

奥天昌樹は「積層構造」を主題に複数のレイヤーによって構成した画面から、絵の具の最下層(下地)にあるまっさらな白線を表出し主張させるアブストラクトペインティングに精力的に取り組んでいます。

Kentaro Takahashiは被写体に対しての「距離」を思索しています。被写体となるモチーフとカメラの間にメッシュなどの遮蔽物を挟み込み、遮蔽物にピントを合わせて撮影することで、ぼかした被写体の姿をより象徴的に写し出す技法などを用いて制作を行なってきました。

両者はこれまで絵画と写真というそれぞれの表現方法の中で何ができるか?ということを留意し、自身の関心に真摯に向き合いその上で様々なアプローチを試みてきました。

画家と写真家の制作のプロセスにおいて、同時間軸で瞬間的に変容していく絵画に対して写真は撮影そして現像と、写真家自身の目が選び切り取ったイメージを他者の目と共有する行為が入ります。絵画では描かれた世界と描かれなかった空間、写真においては画角で切り取られた世界とそこに写らない不可視の空間があり、作家が設定したその距離感によって作品が描写されます。さらに述べるなら絵画においてはその絵画内の空間へ誘うための適正な距離があり、写真においては現実の被写体との距離も含まれ、共に幾十の不可視の距離のレイヤーが作品を構成しています。

絵画と写真とそれぞれ制作から具現化までのプロセスに違いはあれ、Figure Ground (図と地)の関係性において支持体である地への落とし込みは同じであり、展示空間に作品をかけた後に様々な要因要素を経て、作家自身も想定していない新たな作品の見え方が発生するものといえます。本展は二つの表現方法を同じ空間で鑑賞する事で平面表現の幅を拡張するような展示になっています。

絵画も写真も漠然と過去や行為を記録したものではありません。

なぜ絵画なのか、なぜ写真なのか、それはその方法でしか表せない確然たる何かがあるからであり、作家はそれを過去と現在と未来とを一体とし、鑑賞者へ新たな平野への視点を投げかけるものです。両作家の作品に向ける視点を通して、いま一度この世界に対する己の眼差しに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


インスタレーション作品

Resusci-Anneについて

本作品のモチーフになっている人物はパリのセーヌ川のルーブル河岸から引き上げられた身元不明遺体で年齢は16歳ほどと推定されています。彼女の検案にあたった病理医が身元不明遺体の処置として当時の慣習でもあったデスマスクを作成。そしてその薄らと浮かべた微笑みから、その後彼女は心肺蘇生トレーニングに用いられるダミー人形のモデルに採用されました。彼女をモデルにしたダミー人形は1960年に医療用マネキン「Resusci-Anne」として発表され数年でこのデスマスクの複製品はあっという間にパリのボヘミアン集団に広まり、不気味な内装品として多くの人々の好奇の対象となりました。

「Resusci-Anne」は2人の作家にとっては初となる共同制作の作品となります。印刷をKentaro Takahashiが、その支持体の制作を奥天昌樹がそれぞれ担っています。水槽の水面に浮かんだ少女の肖像は、最初に記述したアンネ人形のモデルとなったセーヌ川の身元不明少女です。外部からの干渉によってそのイメージ(図像)は揺れ動きます。

水槽の底面から放たれた光によって透けた肖像の様子は、フィルムに撮影した写真を現像する際にフィルムの裏側から光を当てて透かして見る行為とどこか似ています。これはフィルムを扱う写真家が普段から目にしている光景であり、現像のプロセスのイメージや記憶を立ち上げたようにも、現像の光景を通してアンネの歴史を浮かび上がらせる比喩のようにも捉えられます。

一方、奥天はホワイトペインティングの要領で、気泡やクラックなどを用いたペインティングで支持体を作成します。絵画的なマチエールを用いることで一般的な印刷に使われるフラットな表面からあえて逸脱し、イメージを定着するときに起こる支持体の差異を利用し、アンネという共通のイメージに対してまた別の視点からアプローチします。

2人の作家はこの作品について、作家同士による書簡のやりとりのように取り組みたいと述べています。それは作品による対話であり、1つの作品をそれぞれの視点から手掛けることによって、お互いの姿勢や制作への向き合い方をより理解するためでもあります。本作は今回の展覧会で語られる”距離”について象徴的な立ち位置にあるといえるでしょう。

作家の目や手は、技術的な面においても感覚的な面においても細やかで、ときに情緒を伴ってイメージを選び取り新たな一つの世界を構築しますが、それらのすべてが鑑賞者に伝え切れることはありえません。そして、それは我々の日常も同様です。我々を取り巻く環境の中で、価値観や情報、自分だけの美学や思想(あるいは自分が思いつく限りのすべて)をどれだけ他人と共有できるでしょうか。もしかすると作品とは、誰のものでもない、もしかしたら誰のためでもない、何か明確に語り得ない解読不能な何かであり、その謎について想像を巡らせること自体が我々と世界との距離なのかもしれません。

遺体となった一人の少女の微笑みもまた、約130年の時のなかで様々なイメージや憶測を経て変容してきました。それらのさまざまな歴史を現在の我々はその微笑みから想像することしかできません。

セーヌ川から引き上げられた少女のイメージが本作によって再度、漂流を始めます。

Artists

Kentaro Takahashi

東京都出身の写真家。

2011年渡英、2014年ロンドン芸術大学 London College of Communication写真学科卒。

その後ロンドンに滞在、現地の音楽/カルチャーを主体に写真を撮り続け、2019年に帰国。

現在に至るまで不可視の可視化をテーマに作品を作り続けている


takahashikentaro.com

奥天昌樹

奥天昌樹は美術史におけるコンテクストを画面上から意図的に取り除くことで、絵画が孕んで しまう美術史的な背景や絵画空間内に配置されたモチーフから伝わってしまう過剰な意味性を シャットアウトし、美術史によって解釈される範囲よりもさらに広く普遍的な感覚で人々が触れることのできる絵画表現に取り組んでいます。

作品との出会いは人と人との出会いのようにアクシデントめいたものとして捉えており、キャンバスをカットし支持体に手を加えることで、作品が設置される空間内でより際立った異物のよう な存在感と物質感を与えます。シェイプドキャンバスは四角形の紙の隅をちぎるような感覚で作られており、鑑賞者が矩形のフィールドから解放された絵画空間に飛び込むことを可能にする役割も担っています。

「新生児の甥との出会いから始まり人間としてのアイデンティティを獲得する前の5歳未満の幼児の落書きに原始的な線を感じた」と作家は述べています。作品内の真っさらな線は幼児期だったころの他者の落書きのフォルムであり、マスキングにより画面深部から最前部に表出することで、旧く遥か彼方の洞窟壁画の描き手と筆談するかのように時空を超越しつつ、一つの絵画空間内でそれぞれの存在を繋ぎ合わせます。

幼少期の記憶は本人が覚えているか覚えていないかには関わらず誰もが経験として本来持ってい るものです。そういった記憶や感覚に鑑賞者が思いを馳せることができるよう、画面の深部に転写した記憶の手がかりを追憶し対話するように絵の具を重ねていきます。そうして層状に被覆されたマスキングを最後に剥がすことで、これまでの絵の具の階層を貫く白いラインを残してフィニッシュします。この行程の理由を作家は「描画材が生まれる前の線の成り立ちは轍や削られた溝のようなものが最初であり、その理屈で言うと線というのは凹凸になっているのが自然である」と語っています。

真っさらな白線とエフェクトだけが残され何か中心が抜け落ちたような絵画空間は、人物の気 配だけが焼きつけられた不在のポートレートのようでもあります。これは自身の存在感をあえて作品に残さないことで、画面に描いた他者の痕跡を純度の高い状態で見てもらいたいという姿勢の 現れです。作者すら作品のコンテクストに含まれてしまうということを踏まえた上での選択でもあ ります。一連の制作において作者は自身の存在を作品から消していくアプローチをしていますが、 どこか生きた痕跡や気配が漂います。